2012/10/09

カンタ!ティモール

映画は子供の歌声で始まりました。
ギターを弾く青年と彼を取り囲む十数人の子供たち。
みんな大きな瞳をキラリとさせて、大きな笑顔で歌ってる。
歌声はとても愉快で、ぐっと胸を掴まれる。
子供たちの無邪気な笑顔にある大きな瞳には、見えないものまで見る事ができる力を持っているように思えた。
それは一瞬でわかった。

愉快に歌われている歌は、子供達が生まれる少し前か、生まれた頃に実際にあった、欲まみれの大人が、コマになった大人を使った残酷で悲惨な戦争の歌詞。

忘れてはいけない過ちを、この先に生きる人にも語り継がれるべく歌になって、でもそれは、妬みや恨み、悲しみのメロディではなく、手を繋いで笑顔で右に左にゆれながら歌いたくなる軽快なメロディ。
この国の人のあたたかさがそうさせたんだろう。
このメロディが忘れられない。みんなが口ずさめる歌。

悲しみや痛みのどん底にあった、この国は、そこに住む一人一人が自然に沿った想いや仕事で、自分たちで独立に導いた。
みんなで掴んだ独立。
その手で自国を動かした。
信じたものは、地位やお金じゃない。
信じているのは、自然の中にいる目に見えないもの。
自然に逆らわず、自然の中にいる自分の声を聞き、次に国を担う子供の為に、自分の国を守る。
それで作られた国がまだこの地球にあるんだって。
なんだか勇気づけられた。

日本はどうだろう。


東ティモールが悲しみや苦しみを妬みや恨みに変えなかったのは、自然の流れに沿ったから。
自然は流れる。
だから流したんだって。
人間は涙を流すことができる。
抑え込まず、涙を流して、過ちを流した。
今、東ティモールに花のような笑顔があるのは、そういうことなんだって。

日本はどうだろう。


東ティモールの人は、愛国心て言葉が浅はかに聞こえそうなほど、自国を愛している。
何かに頼るわけでもなく、自分がこの国を。と、想っている。
監督のお話でとても印象深い言葉があった。
街へおりて働くオバちゃんが「市場がまわっていたら国家はいらない。」って言ったって。

日本はどうだろう。


なんだか、真逆に進んでしまっている、私の国。

でも、市場がまわっていれば、国家はいらないって事を答え合わせできた気がした。
改めて、自分の生活上の市場をきちんとつくっていこうと思えた。
私も、自然に沿った仕事をするのだ。
泣くときゃ泣いて、なにかを恨むことはしない。
自分の生活は自分の手で動かしていく。
まだ見ぬ自分の子供と、ドーナツ屋にかけよってくる子供の為に、この姿勢は崩さないよ。

いつか行こうと思う。東ティモール。